浜松探訪:遠江円空研究会会員の「家康の散歩道」

・遠江円空研究会10周年記念作品展に来浜の際の参考に、市内の見所を案内します

・観光案内所で配布しています「家康の散歩道」からクリエート浜松近辺を選びました

・市の観光ボランティアとして活動したこともある会員が、再度自分で歩いてこの記事を書きました

 

・遠江円空研究会の会員専用ブログで紹介し評判が良かったものです

 

*作品展で来浜の際の参考になれば幸いです

 

 

 



遠江円空研究会会員の「家康の散歩道1」

浜松駅から

浜松駅から真っすぐ北に進むと、街灯の上に「羊歯印(しだじるし)」がついています。

これを辿って行き、クリエイトの交差点を西に曲がって行けば、浜松城まで行く事が出来ます。「羊歯印」は、家康の兜印です。

 秀忠誕生の井戸

クリエイトの西に交番があり、その北に「秀忠誕生の井戸」が有ります。

でも、この場所は最近も赤電の駅のリニューアルで簡単に移動してしまうぐらいで、本当では有りません。もう少し西の方だったという説と、今、発掘調査中の元の元城小学校の校庭の「二の丸辺り」という説と有ります。

遠江分器稲荷神社

「秀忠誕生の井戸」から道を挟んで西南のところに遠江分器稲荷神社が有ります。

最近、「家康の散歩道」に追加されたところで、赤い幟が沢山立っています。稲荷神社なので、境内には立派な金色の狛キツネも立っています。1568年に創建され、その後、家康が修造した歴史ある神社のようです。

近くには、徳川四天王の一人、本多忠勝の屋敷推定地の標識が有りました。

 

 八幡神社へ向かう出発点の印

「秀忠誕生の井戸」に戻り、赤電の下の公園を北へ向かうと、公園の中に、橋の欄干の一部が有ります。この橋には、「誕生橋」と彫って有ります。「秀忠誕生の井戸」に因んだのでしょうか。ここから、「八幡宮道」が有ったようです。


遠江円空研究会会員の「家康の散歩道2」

八幡宮(八幡さま)

赤電の下の公園の誕生橋から、北東の方向に向かって行くと、秋葉燈籠が有り、八幡宮の鳥居から表参道になっています。八幡さまは、浜松城の鬼門鎮守の氏神だったようです。

雲立ちの楠

八幡さまで有名なのが、三方原の戦いで敗れた家康が、白馬に乗ったまま身を隠したという大きな楠が有り、この時、馬の尻尾が見えて居て、近くに居た村人が、押しこんで隠して家康は助かったと言われています。

家康は、敗走する時に、いろいろな人に助けられ、これが、「家康伝説」として残っています。家康は、合戦後、褒美として、「権限」 や 「名前」を与えたようです。白い尻尾を隠した村人には、「白尾(しらお)」の名前が与えられ、今も「白尾さん」と言う方が居るそうです。小粥(名字)、曽布川(名字)、など。一番楽しいのは、「小豆餅 と 銭取」 ではないでしょうか。

颯々之松(ざざんざのまつ)

「浜松」の名称の起源になったと伝えられています。

松島十湖の句碑「浜松は 出世城なり 初松魚(がつお)」この歌は、明治の偉人の松島十湖が詠んだ歌ですが、浜松城は代々の城主25人がすべて出世した縁起の良い城だと讃えて居ます。

椿姫観音

引間城主の飯尾豊前守連龍の妻のお田鶴の方を祀る観音様。

引間城は、4代(長連-賢連-乗連-連龍)にわたり飯尾豊前守が守っていましたが、連龍が今川氏真に殺された後、お田鶴が5代城主に成り、家康に攻められて、討死しました。憐れんだ築山御前が、お田鶴の好きだった椿の木を植えたことから、「椿姫」と呼ばれるようになったそうです。

(浜松まつり)凧揚祭生みの親

お田鶴の方の嫡男「義広」の節句の祝いに佐橋甚五郎が大凧を作り城内で揚げたことから、

「凧揚祭生みの親」と伝えられているそうです。

 

浜松城方面に少し向かった、この辺りが本田技研発祥の地と言われています。本田宗一郎が「浜松アート商会」を設立し、ここから、今をときめく「HONDA」が始まったといえば良いのでしょうか。六軒道路が開発されたオートバイのテストコースになっていたという話も有ります。


遠江円空研究会会員の「家康の散歩道3」

東照宮

東照宮の案内

「本田技研発祥の地」から、少し六間道路沿いに西へ向かい、大きな交差点を南に進むと、小高い丘の上に東照宮が有ります。明治に成って建てられましたが、戦災で焼失。

浜松城天守閣と同じ頃に再建されました。パワースポットとして、人気が有るようです.

引馬城(引間城)

東照宮は、もとの引馬城の跡で、家康が今川を倒して、まずこの城に入り、後に、西南方向に拡張して、浜松城としました。

古城、引馬城、引間城、曳馬城などの表記が有ります。入口にある石碑は「曳馬城址」と書いてあります。江戸時代には「古城」と呼ばれ、浜松城の一部に取り込まれていました。

馬を引く(退却)のは縁起が悪いから、引間にしたという説も有ります。

引馬城は4区画に分かれて居て、現在の東照宮の位置が家康の居城(古城)で、3区画は家来が住んで家康を守ったといわれています。

井上延陵の碑

入って直ぐ左に大きな石碑が有ります。井上延陵は、幕臣で、明治19年に東照宮を建てました。

二公像

大河ドラマ[直虎」の頃に、東照宮が脚光を浴び、綺麗に補修され、この頃に、家康と少年時代の秀吉の銅像(二公像)が造られました。真ん中に入って写真が撮れます。

発掘現場

境内で、2014年ころに発掘調査が行われ、大量の「かわらけ」が」出土しました。

これは、三方原の戦いの時、ここに集まって出陣したことを物語っています。

「権現道」の碑

ここから、東照宮の北側をぐるりとまわる道が有ります。

戦後の「祠」の時代の参道ではないかと思います。

浜松城天守閣の良く見える場所

 

東照宮の建物の西側は、浜松城天守閣と天主門が並んで写る良いスポットです。


遠江円空研究会会員の「家康の散歩道」4

日限(ひぎり)地蔵

「玄黙口」に下りる坂の上の角に、「日限地蔵」が有ります。地元の方が守っていてくれます。期限を切って祈れば、その日までに必ず願いを叶えてくれるそうです。

玄黙口

古城を北に下がった所が「玄黙口」で、三方原の合戦は、ここから出陣し、ここへ戻ったそうです。この辺りの町名の元目町は、これから名付けられたと思います。

下垂口

反対の南の角に「下垂口」が有り、町名も「下垂町」でしたが、それではあまりに格好が悪いという事で、現在の「尾張町」に替わりました。

この他、妙(明)光寺口、山手口、名残口、塩市(町)口、鳴子口が有り、現在の町名に

関わっているような気がします。

 家康伝説

三方原の戦いから敗走した家康は、西門から入ろうとしましたが、門番は「殿はこんなみすぼらしい人ではない」として、頑として中へ入れませんでした。仕方なく、「玄黙口」まで行って入場しました。

後に家康は、この門番を「職務に忠実だった」として、褒美を上げました。家康らしい話で、私は、この話が好きです。

浜松報徳館

東照宮へ向かう道の左側に「浜松報徳館」(大日本報徳館浜松)が有ります。大きな石碑と二宮金次郎の像が立っています。石碑は、何と書いて有るか分かりませんが、小学校へ行けば必ず有る二宮金次郎の像は、久しぶりに懐かしく見ました。

 

昨年8月に、2014年閉校した南庄内小学校に有った石像(遠州最古)を移設したそうです。


遠江円空研究会会員の「家康の散歩道」5

浜松市役所の西側からスタートしました。

浜松市役所西側は、以前は浜松税務署が有りましたが、その後は未整備でしたが、発掘調査も終わって、綺麗な公園に成りました。天主閣や天主門が綺麗に見えます。

鎧掛けの松

公園の南西の角に、家康は、三方原の戦いに敗れて逃げ帰った時に、鎧を脱いで掛けて休んだという「鎧掛けの松」が有ります。現在のものは、3代目だそうです。

馬冷

その前の道路を西に向かい、カーブするところ(南側)は、敗走する徳川軍が疲れた馬の体を冷やしたという「馬冷の池」が有りましたが、現在は、「松城緑地」に成っていて、標識も看板も立っていません。

浜松秋葉神社

開成館中・高校の横の坂道を登り、上の道路(姫街道=本坂通り)に出て、南西の方向に向かうと、正面突き辺りに「浜松秋葉神社」の赤い鳥居が現れます。

松城入城の際、秋葉山三尺坊から分霊を勧請して創建されたと言われています。

家康の長女亀姫を正室とする奥平信昌の屋敷の有った場所に建てられたので、「奥平信昌屋敷跡の碑」が有ります。

境内では、1月28日に火祭りが有り、正月飾りを燃やす行事があり、賑わいます。

東京の秋葉原の地名もこの神社名に由来するそうです。AKB48の名前もこの地が発祥?という人も居ます。

旧武田軍を手中にした家康は、井伊直政に任せ、井伊の赤備えとして活躍しました。

旧武田の家臣団の起請文や初戦の小牧・長久手の戦いの際の血判状を奉納した場所として、「井伊の赤備え発祥の地」と言われているそうです。

菩提寺

秋葉神社から、南東の方向に向かうと「菩提寺」の入口に着きます。

一番の特徴は、お寺が北向きの珍しいお寺です。お寺は大体、東か南向きですが、菩提寺は、北向きです。浜松城天守閣を向いて作られたようです。

先祖代々のお墓のあるお寺を菩提寺といいますが、「菩提寺」は寺の名前です。

浜松城第4代城主松平忠頼が両親の冥福を祈るため開いたお寺ですが、昔は、士族しか檀家に慣れなかったようです。

人体解剖発祥の地

浜松で最初の人体解剖に遺体を提供した長谷川直盛(士族)と藤井千十(近くに有った監獄の死刑囚)の墓が有ります。

太平洋戦争の末期、米軍の艦砲射撃から逃げた人たちが、菩提寺の池に飛び込み助かったそうです。今、池には、大きくて綺麗な鯉が泳いでいます。

 

東北の方向に進み、姫街道に出て、少し下がった所に正福寺があり、ここから北へ折れると浜松中央図書館に着きます。

正福寺は、奥山半僧坊浜松別院で「半僧坊」といえば位置が分かるほど親しまれてきました。

残念ながら浜松中央図書館は、改修中で、入れませんでした。

ここは、「浜松城出丸跡の石碑」が有る筈です。鳥居曲輪の後で、浜松城の南の備えでした。

(出丸で有名なのは、大阪城の出丸の真田丸です。)

 

日本点字の考案者の石川倉次の碑も有る筈です。


遠江円空研究会会員の「家康の散歩道」6

浜松城天守閣の下から、真っすぐ南へ向かいました。

蓮華

浜松中央図書館 (浜松城時代の出丸) の下を通って、西に向かい、姫街道(=本坂通り)を横切って暫く行くと、右手に「蓮華寺」が有ります。

家康家臣の鳥居四郎佐衛門が三方原の戦いで戦死した後、妻が創ったお寺だそうです。芭蕉の句碑が有ります。

心造寺

蓮華寺のすぐ南で五社神社の隣に、二代将軍秀忠を産んだ家康の側室、西郷の局が開いたお寺で、西郷の局が奉納した鉄灯篭が有るそうです。遠江49薬師の22番札所で目の治療に御利益が有るとされています。

五社神社・諏訪神社

二代将軍秀忠の産土神(うぶすながみ)として崇拝されたため子育ての神としての信仰が盛んで、七五三の頃には、お参りする人で賑わいます。

戦前は、国宝でしたが昭和20年、戦火により焼失し、昭和35年、五社神社と諏訪神社が合祀され、57年再建されたそうです。

造営当時の浜松城主、高力高房寄進の手水鉢が有ります。

境内に有る大きな青銅製の狛犬は、日本で3本の指に入るとも言われています。

隣は、教育文化会館はまホールで、「浜松市民会館」として長く親しまれてきました。その隣の「浜松児童会館」も同じように長く親しまれてきましたが、今はありません。道を挟んで、前は、五社公園で、浜松市役所が有りました。

浜松復興記念館

五社神社の前の浜松復興記念館は、戦災復興の記録を残すために昭和63年に開館しました。浜松市街は太平洋末期に激しい空襲により焦土化しました。

浜松医学校跡の標識が立っています。

浜松医学校長らが、米国の医学書を翻訳し、日本初の西洋医学書を出版し、「七科約説」と名付けたそうです。

金山神社

浜松復興記念館から南へ坂を下り、西へ少し行くと「金山神社」が有ります。

最近、「家康の散歩道」に追加されました。

甲斐の国から鍛冶集団を浜松城に移住させ、その後、「鍛冶町」に移ったので、鍛冶町の氏神として信仰されているそうです。

中央に蝶番(ちょうつがい)がついた絵馬を売っています。

木下恵介記念館

建築家・中村與資平の設計で、戦火に遭わず残り、浜松市指定有形文化財に指定されています。浜松銀行集会所でしたが、現在は、浜松生まれの木下恵介の記念館になっています。

浜松市鴨江アートセンター

 

元の浜松警察署だった歴史的建造物で、高い望楼が有りました。望楼は今は取り壊されて、現在の姿になったようです。創作活動や交流活動に誰でも利用出来ます。


遠江円空研究会会員の「家康の散歩道」7

浜松城駐車場から浜松市役所前を通り、連尺町へ向かいました。

元城小学校跡

浜松城駐車場の直ぐ南が元城小学校跡で、平成29年4月に中部中学校(中部学園)に併校され、現在は跡地に成っています。

浜松で初めての小学校で卒業者には、井上靖、木下恵介などが居ます。

校庭は、二の丸が有った所で、現在、発掘調査中で、二の丸御殿や天主閣へ登る道などが解明されています。

浜松市役所前には、二の丸跡の石碑が建っています。浜松市役所前から連尺町へ向かう途が「大手通り」です。

浜松城は、東西に700m、南北に大手門までが900mで、二の丸の外に三の丸が有り家来が住んでいました。

大手門

市役所前を通り、現在の連尺町へ向かい、交差点に着きます。

この交差点に昔は「大手門」があり、東海道は、ここで直角に曲がり西へ向かいます。

行列が西から来た時にお城が正面に見えるように、道が変更されたそうです。

この交差点から西へ向かう道が、「姫街道=本坂通り」で、秋葉神社辺りで曲がり、三方原の方へ向かいます。

高札場跡

谷島屋書店の前に、高札場が有りました。

領主が決めた法度や掟を人目につくように高く掲げておいた場所だそうです。

本陣高札

東海道沿いに歩くと本陣跡を示す高札が立っています。浜松宿には、本陣が6つ有りました。6つも有るのは、東海道では、箱根と浜松だけです。

杉浦本陣、川口本陣、佐藤本陣、梅屋本陣などで、川口本陣は、一番新しい本陣と書いて有ります。

松尾神社

南に向かい、旅籠町の交差点を右折すると松尾神社が有ります。家康が浜松城内に有った浜松神社を松尾神社と改名し、大正5年に現在地に移されたそうです。

東漸寺

松尾神社からそのまま西へ少し向かい、左折して、暫く行くと「東漸寺」です。元引間城主の飯尾豊前守連龍の墓の五輪塔が有ります。

飯尾豊前守連龍は、今川氏真に殺され、妻のお田鶴の方が引間城主の跡を継ぎましたが、家康に攻められ討死しました。お田鶴を供養するため建てられたのが「椿姫観音」です。

 法林寺

「東漸寺」の南に「法林寺」が有ります。野口雨情の「曳馬の萩」の歌碑が有ります。

オルガン坂

南に向かい雄踏街道に出て西進し、交差点を右折したところがオルガン山と言ったそうで、呉竹荘の前の坂がオルガン坂です。

 

山葉風琴製作所(現ヤマハ)が日本初のオルガンを製造した場所と言われています。


遠江円空研究会会員の「家康の散歩道」は如何でしたでしょうか

・遠江円空研究会10周年記念作品展で来浜の際、また市内の方々も、作品展会場クリエート浜松、浜松駅から近い場所を、会員が自ら歩いて寄稿した「家康の散歩道」の一部をを掲載させていただきました

・お役に立てれば幸いです